うなぎを開かずに焼くと、どうなるのか。

うなぎを開かずに焼くと、どうなるのか。

嘉門の大将は、捌かずに丸のまま焼いたうなぎを、食べたことがあります。 昔のうなぎはそうやって焼いていたらしい、と聞いて、一度試してみたのだそうです。

感想は、ひとことでした。

「脂がくどすぎて、
まったく美味しくなかった」

開かずに焼いたうなぎと、開いて焼いたうなぎ。何がそんなに違うのか。今日は、大将が自分の舌で確かめた話と、蒲焼きの昔の姿の話をさせてください。

蒲焼きは、もとは丸焼きだった

蒲焼きの「蒲」は、水辺に生える草、蒲(がま)のことです。名前の由来には諸説ありますが、よく知られているのは、串に刺して焼いたうなぎの姿が、蒲の穂似ていたからという説です。

いまの蒲焼きを思い浮かべると、少し不思議な話です。開いて平たくなったうなぎは、あの細長い穂には似ていません。似ていたのは、昔のうなぎです。そのころは、うなぎを開かずに丸のままあるいはぶつ切りにして串に刺して焼いていました。

室町時代の料理書とされる『大草家料理書』には、こうあります。

『大草家料理書』より

宇治丸かばやきの事。
丸にあぶりて後に切也。
醤油と酒と交て付る也。

うなぎの蒲焼きは、丸のままあぶって、あとから切る。醤油と酒を合わせて付ける。
「宇治丸」は、もとは宇治川のうなぎのこと。のちに、うなぎそのものを指す呼び名になりました。

開かずに焼くのは、当時はごく当たり前のことでした。

大将が、試しに食べてみた

大将が試したのは、この「丸にあぶる」焼き方でした。そして出た答えが、冒頭のひとことです。

うなぎは脂の多い魚です。開かずに焼けば、身の内側は火にじかに当たりません。脂は皮の内側にこもったまま、落ちていく先がないのでしょう。

江戸の人も、同じことを書いていた

面白いことに、同じ結論を書き残した人が、江戸時代にもいました。江戸の終わりごろの国学者、斎藤彦麿の随筆『傍廂(かたびさし)』です。

『傍廂』より

昔は蒲焼もうなぎの口より尾まで、竹串を通して、塩焼にしたるなり。(中略)蒲の穂には似もつかず。名儀は失へれど、味は無双の美味となれり。これはいにしへにも遙にまされり。

昔は蒲焼きも、うなぎの口から尾まで竹串を通して、塩焼きにしていた。いまは背から開いて竹串を刺すので、蒲の穂には似ても似つかない。名前のいわれはなくしたけれど、味は並ぶもののない美味しさになった。昔よりはるかに勝っている。

名前の意味と引きかえに、味を取った。160年以上前の江戸の人と、嘉門の大将が、同じところに行き着いていたわけです。

開いて焼けば、脂は炭に落ちる

開けば、身が火にじかに向きます。焼いているあいだに、余分な脂は炭へ落ちていきます。

開いたうなぎを、蒸さずに炭火でじかに焼き上げる。これが地焼きです。大将が確かめたのは、ちょうどその裏返しでした。開かずに焼けば、脂の落ちる先がない。開いて炭火で焼けば、余分な脂が落ちていく。

江戸ではその後、素焼きのあとに蒸してから、たれで焼き上げるやり方が広まりました。江戸時代も後半になってからのことと言われます。蒸すと脂が抜け、身はやわらかくなります。余分な脂を、関東は蒸気で抜き、地焼きは炭火で落とす。やり方は違っても、うなぎの脂とどう付き合うか、という同じ問いへの答えです。

蒲焼きの焼き方のうつりかわり
室町時代
開かずに丸のまままたはぶつ切りにして串に刺し、焼く
江戸時代
割いて開いたうなぎに串を打ち、焼くようになる
江戸時代の後半
江戸で、途中に蒸す工程が加わる
(いつ始まったかには諸説あり)
いま
蒸してから焼く関東風と、
蒸さずに炭火で焼く地焼き

嘉門が、蒸さずに焼く理由

嘉門のうなぎも、開いて、蒸さずに、炭火でじかに焼いています。

余分な脂が炭へ落ちるので、食べ終わったあとが軽い。皮目は香ばしく焼き上がり、ひつまぶしにしても食感がぼやけません。大将が地焼きを選んでいるのは、この軽さと香ばしさのためです。

同じうなぎでも、開くか開かないかで、ここまで変わる。昔の焼き方を一度くぐってみると、いまの焼き方にある理由が、よく分かります。

蒸さない地焼きを、どうやって冷凍でお届けしているのかは、こちらに書きました。

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嘉門のうなぎを見る
地焼きうなぎ 嘉門
岐阜県郡上市大和町徳永164番地2
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